普段着の文章 物部自動車工業 店主の日記

京都市西京区で車検整備の認証工場の店主です.趣味や思いつきを書いています.

特に読んでいただきたい記事
  1. 命は大切ですかと問えば

命は大切ですかと問えば

命は大切ですかと問えば
例えば、駅前で「命は大切ですか」と問えば、ほとんどの人が大切だと答えてくれるかもしれない。では、「日本の反対側、例えばブラジルの一度も会ったことがない、ほぼ、間違いなくこれから会うこともないであろう飲んだくれのおっさんの命も大切ですか」と問うて、大切ですと即答する輩は嘘つきです。返事に戸惑うか、わからない、と答えるのが多くかもしれません。
で、私はというと、「大切です」と即答する人間です。

さて、少し展開してみますと、
ここに年代モノの骨董品がある、有名な陶工が作った壷、国宝と呼んでも差し支えないほどのもので、関心のある人にとってはとても大切なものかと思います。でも、私はそういうのに関心がないので、古びた花瓶としか認識できません。
一つの存在にどうして、こんなにも価値が違うのか。つまりは、価値というものが壷に内在しているのではなく、それに接する人の側にあるからです。そして、良い物とは見る人に関心を呼び起こす触媒のような力を持つものという定義が出来るかもしれません。
とにかく、それ故に、一つのものでも、接する人によって価値が変わるわけです。
正直なところ、その伝で考えれば、自分の命とブラジルの知らないおっさんの命を並べて考えた場合、そりゃ自分の命は大切だけれど、知らないおっさんの命はそれほどでも、となるのが、当たり前だと思うのです。

でも、ここで考えなければならないのは、それを命について考えたとき、そういった社会は、とても生きづらい社会であり、自分の命も家族の命も、何処かの知らないおっさんの命も、みんな大切だよという社会の方が、誰もが生きていきやすい社会だと思うのです。
つまり、命の大切さは、その存在に既に内在を約束されているのだ、そう考える社会の方が安心して生きていける社会なのです。

ですから、私は命の区別なく、命は大切なものだと申しますし、そう考えようとします。
これを建前と揶揄することも簡単ですが、なにやら、どんどんと生きづらい社会や世界になっていると実感するこの頃、すべての命は大切なのだと意地を張ることはとても大切なことではないでしょうか。

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配列とか

FORTHでは、標準(F83辺りが私の頭の中ではFORTHの標準と言うことになっていますが)で、配列がありません。

ただ、A(5) = 10 というような感じで、配列にデーターを入れることができれば、便利です。FORTHは自己増殖型言語とも呼ばれておりまして、私の記憶ではということですけど、ならば、配列を用意すればよいだけでして。

とりあえずは、メモリ上に領域を用意して、添え字付きでデーターをやり取りできれば良いわけです。

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上の画像は、変数を設定して、メモリーをダンプしたものです。

最近、勉強しだしたC言語同様、メモリーを直接見ることが多い言語です。多分、C言語より低レベルの言語かもしれません。

なお、低レベルと言うのは、質が劣ると言う意味ではなく、より、コンピューター側の言語であると言う意味です。

 

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ナマステ タージマハル 向日市店でCランチをいただく

以前から、近所にインド料理店があるということは知っていたのだけれど、怠け者の常で、駐車場が見当たらないという理由だけで行かずにいました。

今日は天気も良く、歩かなきゃ、健康のためにと、それなら、折角だし、以前から興味のあったインド料理  ナマステ タージマハルへ行ってきた次第。

Cランチをいただきましたが、ナンが大きく、ちょっと食べきれないかもと思ったのですが、美味しく、残さずいただきました。

カレーは二種類、これも美味しかったですね。

料理に詳しくないので、なんというカレーなのか知りませんけど。

あと、サラダのドレッシング、なんというのでしょうね、これも美味しかった。

料理に詳しければ、色々と固有名詞を出せるのですが、知らないので。

大学ってなんなんでしょうね

いったい、大学ってなんなんだろうと、ここのところ、改めて考えています。大学は就職のための予備校であるとか、準備期間であるということが、わりと、平然と語られる時代になった気がします。

私が学生だった頃は、新たな知識を得る場所、思考することを学ぶ場であるというふうに云われていた気がします。もちろん、本音は就職予備校だなと思っていたわけですが、それをそのまま言うことに抵抗がある、臆するところがある、そのため、しっかりとした考え方を身に付け、先進の知識を得るために大学に行くのだという建前と、ほとんどの人にとっては、それは、残念ながら建前でしかなかったのだろうけれど、その建前を大切にしてきた、そんな気がします。

ただ、この頃、何故大学へ行こうとするのか、一般化できる、行く理由と目的をはっきり提示できないと、今の十代後半、二十代初めの人達を不幸にしてしまうのではないか、そんなふうに思うのです。

続きは元気のあるときに書きます。

gforthについて

gforthについて

windowslinux、ともに利用できるforthとして、いま、gforthで、forthの勉強をしています。
F83やToolFORTHも使っていたので、それほど抵抗はありませんが、やはり、長い間、プログラミングなどしていなかったので、これはどうするんだっけと悩むことも多いです。ま、それもまた勉強と云うことで面白くはありますが。

gforthのダウンロードは以下のアドレス。
http://www.complang.tuwien.ac.at/forth/gforth/

エディターはgeanyを利用しています。
http://www.geany.org/

geanyはforthにも対応していますので、得てのエディターがなければ、お使いになるのもいいのではと思いますね。
私の場合は、勉強を始めたばかりのCとRubyもgeanyをエディターにしてますので、使い勝手が良くなっています。

Cはポインターが難しいと聞いていたのですが、ポインターと云うのは間接アドレスみたいなものなのでしょうか。私の世代前後はNECのBASICの遅さに辟易とし、BASICのサブルーチンをZ80や86のアセンブラで書くというのが、わりと多かったので、間接アドレスには然程抵抗はないのですが。




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貧困のことと借金と

「政治学に関係するものらしきもの」というブログを度々拝見しているのですが、「奨学金には手を出すな」という記事について書かれており、興味を感じて、両方の記事を読んでみました。

奨学金という「借金」と就職できる大学という現実

奨学金には手を出すな

詳しくはそれぞれの記事をご覧いただければと思いますが、切実に貧困について考え、対処しなければならないところまで来ている、そんな気がします。

続きは後で書く

  • 大学の役割を再考する
  • 生活をするということ
  • 自分のお金と他人のお金



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京都放送劇団 秋日狂乱 を見る

ホールにて京都放送劇団 秋日狂乱 を見る。
初期のラジオドラマ録音風景を模した舞台は興味引くものだった。内容はコミカルであり、そして家族というモノについて考えさせられるものであったと思う。

戦前、いやもっと前は、家族親戚一族郎党が一つの基本集団だった。それが、家族という形に分断され、次は個人という形に分断されることで、個人が一人で社会とあい対さなければならない時代になった。ある意味、個人が疲弊する時代だ。その頃に書かれた作品だろう、その葛藤が面白く描かれていたと思う。
ただ、舞台の後、深田さんがおっしゃっていたが、1時間に収めるために、かなりの台詞を削ったとのこと。その結果として、観客に訴える力が少し弱まったのではないかなと思う。その辺、なかなか難しいことだと思う。

パンフレットの中に、鴨沂通信 番外編というのがあった。鴨沂高校移設についての高校生達の強い思いが書いてあり、是非とも、それと関連した舞台を観てみたいと思ったのだけれど、次の用事のために観ることが出来なかったのが残念だ。
いっそのこと、今回の舞台すべてをyoutube辺りで見せてくれないかなとか思ったりもする。

京都放送劇団 http://www.kyo-hg.org/

 

まぶいの会・京都 肝苦りさぁ沖縄(抄)を観劇する

まぶいの会・京都 肝苦りさぁ沖縄(抄)を観劇する

第35回Kyoto演劇フェスティバル まぶいの会・京都 肝苦りさぁ沖縄(抄)を観劇した。以前、多分、10年以上前に、とあるお寺で見せていただいたことがある。

改めて見て、沖縄のことを考える。そして、命の大切さを考える。命がこれほど軽く扱われたことがあったろうか、上陸してきた米兵に白旗上げて降参した方が、まだ、助かった命も多かったのではないか。そんな思いに捉われつつ、思うのは、人はそれほど強くは無いということだ。だからこそ、こういった状況にならないように考えていかなきゃならない。

ただ、敗戦後、70年近くが経つ中で、当時を経験した人達が少なくなってしまった、それに比例するかのように、どうも、この時代、きな臭くなりつつある。

今のフクシマの問題にしても、基本の部分は一緒だと思う。
他人の辛さ苦しさを、我がこととする、肝苦りさ、これを胸に、生きて考えていく中で、命の大切さを自分のものとすること、そして、命はとても大切なんだよという社会の方が、生きていきやすいことを再発見していかなければ、またもや、同じ失敗を繰り返してしまうことになりかねないと思う。

パンフレットの中に、鴨沂通信 番外編というのがあった。鴨沂高校移設についての高校生達の強い思いが書いてあり、是非とも、舞台を観てみたいと思ったのだけれど、次の用事のために観ることが出来なかったのが残念だ。

無料塾とは

無料塾とは
新聞で無料塾という、を知り、ネットでも検索してみる。おおよそ、高校入学のための無料の進学塾と捉えていいかもしれません。
大企業ほど支払う税金が減り、翻って国民の税金は増えるばかりで、つまりはお金をいわゆる富裕層とでもいうのでしょうか、しっかり吸い上げられ、残り少なくなってしまったお金で、社会はなんとかやりくりをしようとして、しんどくなり、貧困が拡大している、そんな中、なんとか、次の世代が理性を持って活動していくに、なんらかの手助けができないのか、そんなことを無料塾という言葉から考えます。

馬齢を重ねてきただけで、大して次の世代に伝える技術も知識も考え方も、持ち合わせがない私としては忸怩たる思いです。

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ちと、思うこと

夜回り先生こと、水谷修氏の著書やDVD、講演にも行って、ここ2,3年はまったく読んでいないのですけど、曖昧な記憶でお恥ずかしい限りですが、初期、水谷氏は夜の街を彷徨う子供たちに家に帰るようにと声をかけていたのですが、その後、家に帰るようにあまり言わなくなった、というような、曖昧な記憶が私にはあるのですけど、この文章を書くために改めて水谷氏の著作や録画した番組を見ていないので、どうだったか。
さて、こういうことを書き出したのは、家が子供の安心できる場所でなくなったと、改めて気づいたからです。

子供が何を考えているかわからない、芯がないと嘆く父親を見まして、あぁ、これは、家が子供の居場所でなくなっているのだなと思いました。
子供が何か自分の言葉を発しようとすると大声で遮り、その言葉を退ける。
多分、父親は良かれと思って、自身の思う方向へと指し示そうとしているのでしょうが、そのやり方に間違いがある、まずは子供の言葉を一度受け入れて、その上で、言いたいことがあるのなら、それを言えばよい、と思うのです。
子供の側から見れば、自分の思いを手前で遮られてしまった、そういう絶望感だけが心に残ってしまう、結果、子供は親に心を見せるのが怖くなってしまう。結果、親は子供が何を考えているかわからないとなるわけです。
これは、本来、親の側が変わっていかねばなりません、が・・・。
親が子供にそういった行動を為すのは、親が子供を支配したいという、それが例え子供のためと思っての行為であっても、それによって、子供が家にいられなくなってしまうのではと思っています。

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