物部自動車工業 店主の日記 普段着の文章

京都市西京区で車検整備の認証工場の店主です.趣味や思いつきを書いています.

特に読んでいただきたい記事
  1. 命は大切ですかと問えば

これからの、この国の様相は

これからの、この国の様相は

晦日を前日に控えて、ちょっと書いてみようかなと思うのが、これからのこの国の有様ですけど。

先日、読んで衝撃を受けた本が、「THIS IS JAYPAN」ブレイディみかこ 新潮文庫
イギリスの保育士 ブレイディみかこの見た日本の保育教育。イギリスの保育園より、ずっと少ない保育士で子供を見守ることができる日本。もしくは日本の子供たちに驚く。
これと同じことを長谷川眞理子も新聞記事に書いていた。
つまり、日本の子供はおとなしい、保育園から大学生まで、随分とおとなしい。おとなしいからこそ、少数の保育士や教師で対応できるわけだという。

全ての子供がそうだとは言わないまでも、随分と、そういう子供たちが多いのだろうと思います。

多分、今の子供たちは十数年前の授業崩壊の次に来た世代だろうと思います。自分自身が出来るだけ向上するための努力をせず、他者を下に落とすことで、比較して、自分自身が上位に来ることを望んだ世代の次にやってきた子供たちは、すっかり、表層的にニヒリズムに侵されていたのだと私は思っています。

およそ30年前の対談、「思想の折り返し点で」朝日選書にて、日露戦争以降、日本人は「手続き」に埋もれてしまったとあります。
つまり、中身や理屈を重視するよりも、手続きや形式を重視するようになった。これは箱もの行政と重なる部分もありますが、保育園という箱、小学校という箱を通過すれば、中身がどうとあれ、(中身が)成長していると見なすという認識です。子供たちは、黙っていれば、おとなしくしていれば、手続き上の瑕疵は何もなく、すり抜けていくことがわかっている。

ただ、どこで子供たちは侵されたのか。おとなしい保育園児と化してしまったのか。
順序を考えるなら、それは家庭となります。
30年近く前、小学校の教師間で言われていたのが、学校に躾まで要求しないでくれ、そういった基本は家庭で教育してくれと言うことでした。
多分、当時から家庭教育が崩壊しつつあったのではないか。そして、今の小さな子供を持つ親はその頃の子供である。

社会は厳しいこと、辛いことがいくらもある。家庭はシェルターであるべきと私は考えるのですが、その機能を家庭は成し得ていないのではないか。

日本独特の、逃げ場のないタテ社会が家庭の中にもあるのではないか。
親と子が、家庭内において、タテ社会、つまり、親が上位、子供が下位に位置し、親が子供強く抑制しているのではないか。もちろん、親が意識的にそうしているとは思いませんが、親が子供に何かを要求するとき、少しでも怖い顔をすれば、ちょっと声を低く言えば、それだけで、上下関係は成立してしまいます。そんなことは一度もないと胸を張って言える親が本当にいるでしょうか。
灰谷健次郎は子供から親が学ぶことの大切さを説きましたが、それを知る親は今もいるのでしょうか。

「家の中の広場」鶴見俊輔 編集工房ノア 40年近く前に書かれた本です。
人間の能力は対等ではない、能力に違いのある相手を助けようという気組みが生じるときに家庭が出来るとあります。
つまりはお互いがお互いを助けたいと強く思うことで家庭が出来る。そのためには対等の能力は無くても、存在価値は対等であるという認識が必要で、それは上下関係からは生まれません。

考えてみれば、アニメ、今年は「鬼滅の刃」が随分と流行りました。兄が妹のため命を賭して戦い続けるというお話ですが、その他のアニメやゲームでも、正義のためにとか、仲間を護るためにとか、そういうお題目のアニメや漫画や小説が多い。
香港デモの時、日本人はこういったアニメを作り出しているのに、どうして、私たちの香港デモに関心を持たないのかという声がありました。
それはそうだなと思うのですが、なぜ、そうではないのか。
つまり、正義とか仲間というのは、空想の世界の産物であるというニヒリズムを表層的に把握した、その結果と考えれば納得も出来るのではないでしょうか。
私たちはこういう人間です。
こういう人間が多勢を占める国にどういう未来があるのかと考えると、よほどの切り替えが無い限り、あまり好もしい国にはならないだろうなと考えます。

明日を大晦日に迎えて、と思いましたが24時を回りました。
年末、最後になるかもの文章でした。