物部自動車工業 店主の日記 普段着の文章

京都市西京区で車検整備の認証工場の店主です.趣味や思いつきを書いています.

特に読んでいただきたい記事
  1. 命は大切ですかと問えば

新聞の投稿欄を読んで

新聞の投稿欄を読んで

つまりは、お金持ちは社会に貢献しているので、そういう人たちと庶民との格差はあって当然という意見。
一文の前後が論理的にうまく繋がっていないなど、文章についての問題はあるけれど、あぁ、こういう考え方の人っているのだな、案外、多いかもしれないと思った。
私は真逆の考えかたで、人は誰もが歳をとり、また、病気にもなる。社会はそういう人たち、またはちょっと先

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の私を守るために作り上げたものである、そして自由は上から貢献度によってお分けいただくものではなく、自らに元から備わっているものだと考えるので、この考え方に与することは出来ない。
文章の最後に、不満なら田舎に引っ越せばいいとあるが、残念ながら、私は既に田舎に暮らしているので、引っ越し先がない。
ま、この頃、テレビ番組、「ぽつんと一軒家」をぼやっと見ていたりするので、山奥に小屋を建てて暮らすのもありなのかなぁ。毎朝、沢の水を汲んで暮らすのだろうか。老骨にはきついなぁ

田舎はじじばばばかりであるので

私が住むこの地も、随分と田舎なので、周りはじじばばばかりだ。で、私はじじだ。 腰が痛いとか、歩くのがしんどいとか、そんな話ばかり。 そんな環境なので、「歩く」ということについて、ちょっとだけ考えてみる。 まずは、しゃがんだ状態から立ち上がる時、何処を意識するか。 大抵は腰や膝でよいしょっと立ち上がる。特に膝だと思う。 これは間違いだ。 しゃがんだ状態から立ち上がるのに必要なのはつま先だ。頭を前方に向けて少し落とし、体を少し前へ持っていく。その間に、横から見て、足首から膝までの線を地面に対して直角にする。そうすれば自然に立ち上がっている。 こうすれば膝にも腰にも負荷がかかりにくい。 つまり、鍛えなければならない一番は足首だったりするわけだ。ふくらはぎからつま先までを鍛えること。 歩くのも同じでふくらはぎからつま先までもしっかりと鍛えて、それから、上を鍛えていくというのが順当なわけだ。 そこを間違えて、腰をなんとかと考えるから、歩けなくなる。 って、私は思っていたりするのですけどね

怒る お宝を掘り当てろ!!アンティーク鑑定旅~イタリア in ミラノ・ベネチア~

お宝を掘り当てろ!!アンティーク鑑定旅~イタリア in ミラノ・ベネチア

お宝を掘り当てろ!!アンティーク鑑定旅~イタリア in ミラノ・ベネチア~|民放公式テレビポータル「TVer(ティーバー)」 - 無料で動画見放題

 

ぼぉっと日曜日の深夜、テレビを見ていた。女優二人がイタリアの蚤の市で買い物をし、それを鑑定士に持ち込み、儲かったかどうかを調べて悲喜こもごもという番組だ。
女優が売値の半額を要求する、店側はさすがにそれはと、半額強の金額を提示し、それを購入する。
私はその番組をみて、一人、夜中に腹を立てていた。
日本のデフレをイタリアに広めようとするんじゃないと、お茶を吞みながら思う。
歳を取ると怒りっぽくなる側の人なのだ、私は。
つまり、初めの売値と実際の支払金額の差が、その小さな店の利益になる。つまり、店の利益を極端に減らすよう要求したわけだ。
売値から端数を削るくらいの値引きならば、店側にも利益が残る。今日はちょっと儲かったから、美味しいものでも外食しようとなれば、レストランがちょっと儲かる。こういう形でお金が巡る。
極端な値引きはそれをさせないようにしているのと同じで、いまのこの国の経済状態がまさしくそれで、他国で値引きを要求するのは、この国の悪い経済状態を他国にも、この場合はイタリアにもせしめることで、こういうことはすべきではない、と思って腹を立てていた。

読む アサリ、ワカメ、ウナギ…相次ぐ国産偽装の主犯は業者でなく「安いニッポン」

アサリ、ワカメ、ウナギ…相次ぐ国産偽装の主犯は業者でなく「安いニッポン」
窪田順生:ノンフィクションライター
https://diamond.jp/articles/-/296524?page=5


「筆者には消費者が「安さ」をこれまで以上に強く求めるようになった「安いニッポン」の弊害もあるのではないか」とある。

食品偽装の主因は安さを求めすぎることにあると、記事では書いている。スーパーにで、商品が今までより高かった時、原材料が高くなっているからしょうがないなぁとは考えずに、安いスーパーを探しに行くということが問題だということだ。
多分、当たり前じゃないかと思う人がほとんどだと思う。
ただ、こういった行動の結果、比較して高いスーパーの売り上げは下がり、従業員の給料が減る、もしくはリストラになる。
その従業員はお金が無いので、消費者の一人として、安いスーパーを求める。
つまりは世の中に巡るお金の総量が減る。結果、多くの人が貧困になる、つまり、私たちの購買活動が貧困化を産み出すのだということだ。

日本の貧困化はそういう多くの人の購買活動にあるということだ。つまりは、ちょっと高くなっても買うよという人が増えれば、というか、それでしか、日本の経済社会は立ち戻らない。これが10年前なら、それじゃ、私、ちょっと高いけれど買うよと言う一定数の人たちもいただろうけれど、いまはいないのじゃないか。
自力で出来る人の層がかなり薄くなった今、どうすればいいかというと、消費税を無くすとか、お金を配るくらいしかないのかなと思ったりするのだけれど、あまりそういう状況にはなりそうにはないと考える。
それを実現せしめるには、国民の多くが怒りを持って、消費税を無くせ、政府に金を出せと意志をしめさなきゃならないのだけれど、多分、それは無いだろうと考える。
香港デモが盛り上がった原因の一つに通識教育があった。一つの問題について議論を尽くすという教育があったからこそ、人は怒るということが出来たのだと思う。この国にはそういう教育はほぼ無いと言ってもいいのではと私は思っている。
また、久野収は、理よりも利で動くこの国の人を嘆いたけれど、怒るということは、当然のことながら、矢面に立たねばならず、それは明らかに「損」なのである。
だから、理よりも利を取る人たちが多くであるこの国では、自分の損になるようなことは誰もしないのだ。
私もぐずぐず書くだけでしないのだ。
あぁ、やんなっちゃうな

2022-02-11 第43回 Kyoto演劇フェスティバル 有座 「送り火」を観に行く

第43回 Kyoto演劇フェスティバル 有座 「送り火」を観に行く。うっかり、御所の西側に車を置いてしまい、少し遅れる。

多分、3回か4回、見ているし、youtubeでも繰り返し見た。
それでも、観に行きたいと思ったのは、舞台の気配を感じたいと思ったからだ。
youtubeでも観ることは出来るのだけれど、舞台は全身で観るという感触があるのだ。
これがとても好き。
寂れつある西陣の風情が開発によって浸食されていく、戦争もそうだ、当たり前のようにあった日常を崩されていく。
それでもね、しっかり生きていこうよという気分が伝わってきて、なんか、私自身もしっかり生きていかなきゃという気分になるのだ。

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自転車用のドライブレコーダー

地元の新聞記事。

自転車にドライブレコーダを取り付ける必要性は、かなりあるだろうと思います。

誰もが正確に状況を把握し、正直であれば、必要ないのですが。

私はスマホを持っていません、ですから、詳しくは存じませんが、ドライブレコーダーのアプリとかあるかもしれませんね。

そこいらじゅうに監視カメラがあるようで気色悪いですけれど。

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EU、頻繁な追加接種に懸念 免疫低下の恐れも

EU、頻繁な追加接種に懸念 免疫低下の恐れも

新型コロナ: EU、頻繁な追加接種に懸念 免疫低下の恐れも: 日本経済新聞 (nikkei.com)

免疫機能の低下の恐れありということか。思ってもみなかった

ワクチン打ったけど、やっぱり抜いてくれるというようなわけにもいかないし。

コロナに罹ったら大変だし、どうしようもないなぁ

京都新聞 絵本、父不在にモヤモヤ を読んで思いますこと

京都新聞 絵本、父不在にモヤモヤ

つまり、絵本を読むと、お母さんと子供だけで、お父さんが出てこない。そこから、ジェンダーについて考えようということですが。

思いだすのが、哲学者 久野収が対談で話した話。いや、多分、久野収だったと思うのですが、どうだったかな。久野収の本はわりとあるのでどれだったか。探すのがしんどい

彼は小さな子供の頃、田舎に住んでいた。子供の彼は、伝染病に罹り、病院に入院することもなく、家の一室に隔離された。

昭和の初めの田舎の話です。

母親は、感染の危険をおかして、毎日、ぐったりとした彼の体を拭き、下の世話までもした。父親は部屋に入らず、ふすまを開け、がんばれよと声をかけるだけだった。彼は子供の頃の話として、別に、親に対してどうだとは語っていないのですが、多分。なにぶん、私も読んだ記憶で書いているので。

新聞記事を読んで思いますのは、父親が子供の苦しいときに、母親と同じ行動が出来た時、初めて、絵本に父親も出演させてもらえるかもしれないなぁということでした。

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これからの、この国の様相は

これからの、この国の様相は

晦日を前日に控えて、ちょっと書いてみようかなと思うのが、これからのこの国の有様ですけど。

先日、読んで衝撃を受けた本が、「THIS IS JAYPAN」ブレイディみかこ 新潮文庫
イギリスの保育士 ブレイディみかこの見た日本の保育教育。イギリスの保育園より、ずっと少ない保育士で子供を見守ることができる日本。もしくは日本の子供たちに驚く。
これと同じことを長谷川眞理子も新聞記事に書いていた。
つまり、日本の子供はおとなしい、保育園から大学生まで、随分とおとなしい。おとなしいからこそ、少数の保育士や教師で対応できるわけだという。

全ての子供がそうだとは言わないまでも、随分と、そういう子供たちが多いのだろうと思います。

多分、今の子供たちは十数年前の授業崩壊の次に来た世代だろうと思います。自分自身が出来るだけ向上するための努力をせず、他者を下に落とすことで、比較して、自分自身が上位に来ることを望んだ世代の次にやってきた子供たちは、すっかり、表層的にニヒリズムに侵されていたのだと私は思っています。

およそ30年前の対談、「思想の折り返し点で」朝日選書にて、日露戦争以降、日本人は「手続き」に埋もれてしまったとあります。
つまり、中身や理屈を重視するよりも、手続きや形式を重視するようになった。これは箱もの行政と重なる部分もありますが、保育園という箱、小学校という箱を通過すれば、中身がどうとあれ、(中身が)成長していると見なすという認識です。子供たちは、黙っていれば、おとなしくしていれば、手続き上の瑕疵は何もなく、すり抜けていくことがわかっている。

ただ、どこで子供たちは侵されたのか。おとなしい保育園児と化してしまったのか。
順序を考えるなら、それは家庭となります。
30年近く前、小学校の教師間で言われていたのが、学校に躾まで要求しないでくれ、そういった基本は家庭で教育してくれと言うことでした。
多分、当時から家庭教育が崩壊しつつあったのではないか。そして、今の小さな子供を持つ親はその頃の子供である。

社会は厳しいこと、辛いことがいくらもある。家庭はシェルターであるべきと私は考えるのですが、その機能を家庭は成し得ていないのではないか。

日本独特の、逃げ場のないタテ社会が家庭の中にもあるのではないか。
親と子が、家庭内において、タテ社会、つまり、親が上位、子供が下位に位置し、親が子供強く抑制しているのではないか。もちろん、親が意識的にそうしているとは思いませんが、親が子供に何かを要求するとき、少しでも怖い顔をすれば、ちょっと声を低く言えば、それだけで、上下関係は成立してしまいます。そんなことは一度もないと胸を張って言える親が本当にいるでしょうか。
灰谷健次郎は子供から親が学ぶことの大切さを説きましたが、それを知る親は今もいるのでしょうか。

「家の中の広場」鶴見俊輔 編集工房ノア 40年近く前に書かれた本です。
人間の能力は対等ではない、能力に違いのある相手を助けようという気組みが生じるときに家庭が出来るとあります。
つまりはお互いがお互いを助けたいと強く思うことで家庭が出来る。そのためには対等の能力は無くても、存在価値は対等であるという認識が必要で、それは上下関係からは生まれません。

考えてみれば、アニメ、今年は「鬼滅の刃」が随分と流行りました。兄が妹のため命を賭して戦い続けるというお話ですが、その他のアニメやゲームでも、正義のためにとか、仲間を護るためにとか、そういうお題目のアニメや漫画や小説が多い。
香港デモの時、日本人はこういったアニメを作り出しているのに、どうして、私たちの香港デモに関心を持たないのかという声がありました。
それはそうだなと思うのですが、なぜ、そうではないのか。
つまり、正義とか仲間というのは、空想の世界の産物であるというニヒリズムを表層的に把握した、その結果と考えれば納得も出来るのではないでしょうか。
私たちはこういう人間です。
こういう人間が多勢を占める国にどういう未来があるのかと考えると、よほどの切り替えが無い限り、あまり好もしい国にはならないだろうなと考えます。

明日を大晦日に迎えて、と思いましたが24時を回りました。
年末、最後になるかもの文章でした。